私がランニングをしている理由
ランニングを始めるきっかけ
ランニングを始めたのは2012年の秋のことでした。
なかなか思うように毎日いかず、イライラすることが増え、ただ苦しい状態でした。
一時的でも良いから楽しみを見出せる逃げ場、または苦しさから逃れたかった。
そうした中で始めた一つの手段が1つがランニングでした。
ストレスとの付き合い方が下手な私
私は、昔からストレスの扱いが下手です。
上手に発散することができず、ストレスを溜め込んでしまい、やがて処理できなくなっては無気力になっていました。
文字通り潰れてしまっていたわけです。
上手な人、あるいは正直な人は、
食事をしたり、お酒を飲んだり、 他人に愚痴という形で話をすることで発散したり、 映画を見て共感を泣いてスッキリしたり、 買い物をしたり、旅行に行ったりすることで、
ストレスの発散ができるのですが、私はそれらで発散できませんでした。
どれをしても、満たされないし、スッキリしないのです。
それどころか、
宙に浮いているようなフワフワとして、自分のことなのに実感がなく、 空っぽな感覚は増すばかりです。
だからこそ、これら以外で何かが必要だったのです。
思い切った当時の私
当時の私は、思い切りました。
なぜなら、
当時、ランニングなど全くの未経験でしたし、ウェアはもちろん、シューズもない状態でした。
今、振り返っても、最も自分らしくない選択だったと思います。
結果としては、だからこそ良かった。
最も自分らしくない選択をしたのが良かったのです。
なぜ、わざわざ苦しいことをするのか?
ランニングをしていない人にランニングが趣味だというと、
「なんでそんな苦しいことをしているの?」という趣旨の質問をされることがあります。
正直、その通りだと自分も思います。
緩く走るのではなく、ただ走ることに集中するために結構追い込むので、走っているときは、苦しいです。
ここまでするのは、ある程度苦しい状態(=負荷をかける)にして、
走っているとイライラしていて、頭がぼんやりしていた状態から解き放たれ、
走り終える頃には、疲労感と走りきったという形の達成感がもれなくついてくるからです。
不思議な感覚なのですが、エネルギーが満ちてくる感覚が得られます。これが爽快なのです。
身体と心は、繋がっている
ある程度苦しい状態と書きました。
ポイントはここかなと思っていて、負荷をかけて走ると余計なことを考える余裕がなくなるのです。
ご存知でしょうか?
身体と心は、繋がっています。
身体に異常があるときは、心に異常が出ます。
心に異常があるときは、身体にも異常が出ます。
辛い状況というのは、どちらかがバランスを崩してどちらも悪くなっている状況なのだと私は、これらの体験を通じて知りました。
走りはじめたら自分の足で帰って来なければならない
走り始めると助けてくれる人は、ほぼいません。
無理をしろと言っているわけではありません。限界だと判断するのも自分だというだけです。
限界を感じたら立ち止まればいい。歩けばいい。無理そうなら、交通機関などを使うと言う判断をして、他者の助けを求めればいい。
いずれにせよ、基本は、走りはじめたら自分で判断し、帰るというルールがあるだけです。
自分で決め、判断し、完結する一連のプロセスが日々思うようにいかない”しがらみ”から、解き放ってくれます。
走り始めて戻って来たというのは、やり遂げた証なのですから、自信を持っていいことです。
身体は正直
面白いと感じるところをもう一つ。
練習すると自分の成長がはっきりわかります。
今でこそ、週末に時間を見つけて20km近く走ったりするものの、最初は2kmすら走りきることはできませんでした。
しかし、続けていると、できるようになってくるのです。 しかも、割とすぐできるようになります。
これもまた私が面白いと感じる要素です。
最近は、仲間が欲しい
ランニングは、1人で実行することができます。
SNSからも離れ、本当の意味で1人になる時間はどれだけ持てるでしょうか?
私は、平日の時間、週末の時間を振り返るとほとんど持つことができていませんでした。
走り始めるとスマホすらまともに見れなくなりますので、1人になれます。
この1人になることも魅力の1つなわけですが、ここのところ少し変わって来ました。
ランニングを始めると、同じ趣味を持つ人に出会う機会が時々あるからです。
さらに、面白いことにランニングを習慣としている人は、
- ポジティブなマインドを持った人が多い印象
- 自分の意思を強く持っている人
が不思議と多いです。
この人たちと関わりを持てるかもしれないのもラッキーです。
ランニングが共通言語になると、直接の利害関係も無く関係性を築くことができ、とても楽なのです。
おわりに
私が、走る理由は、ダイエットではありません。
なんとなく、健康に良さそうだからという漠然な不安に対する行為でもありません。
ちゃんと理由があります。
ストレスの扱いが下手な私が見つけた日々の生活をより良く過ごすためのちょっとした工夫なのです。